これから医師となり研究者を目指す方へ

 
東京医科大学解剖学第一講座 教授 伊藤正裕氏
東京医科大学人体構造学分野
主任教授 伊藤正裕氏
略歴
1987 香川医科大学医学部卒業
1991 香川医科大学大学院医学研究科免疫病理学講座修了後、同大学医学部解剖学講座助手 
1992 同講師
オランダ・ユトレヒト大学医学部留学(2年間)
1996 香川医科大学医学部解剖学講座助教授
2001 東京医科大学人体構造学分野主任教授(現在に至る)
 
「生命を深く追究するか」、それとも「愛の高みを上るか」
 
2006年4月掲載
よく、なぜ解剖学の道に進んだのかと聞かれます。おそらくは、輝く研究者に偶然出会い、知らずしらずのうちにこの世界に魅入られていったからでしょう。興味ある器官や組織をすりつぶして測定機器にかけるのではなく、場をあるがままに観察する形態学の面白さを想像してみてください。医学の研究分野は、疫学のようにマクロな医学から分子生物学のようにミクロな医学まで多岐にわたりますが、実は登山口が異なるだけで、どの分野も究めていけば真理という同じ山頂にたどり着くのではないでしょうか。

 

高校時代の恩師が語ったSelye博士の全身観


子どものころは、田んぼでザリガニを採ったり、地層があらわになったところから土器や石器を掘り出すといったことに熱中していました。そんなこともあって、高校時代までは教師、獣医、建築家、考古学者になる夢を抱いていたのです。

高校でたまたま保健委員になったのを契機に、当時60歳代半ばの養護教諭の稲葉奈巳先生に出会い、お宅に泊めていただいたりしてお話を伺う折々に、医師になるよう強く説得されました。稲葉先生はストレス学説を最初に提唱したHans Selye博士が来日されたとき、一緒に食事をされたこともあるそうで、「医学は専門化、細分化が進む一方だが、Selye博士は全身的に人を診ることの大切さを説いている」といった話を繰り返ししてくださったのです。

考古学者になるつもりで国学院大学の願書まで取り寄せていた私でしたが、結局は一浪して香川医科大学(当時)に進学しました。この大学にはバンカラ気質を残したような、いわゆる学究肌でない魅力的な基礎医学系の先生方がそろっておられ、「医学には臨床だけでなく基礎研究という道もあるんだな」と眼を開かれる思いがしたものです。

基礎医学系の各講座は活気に満ちており、学部学生の私たちを快く受け入れて実験の仕方を教えてくれたり、飲みに連れて行ってくれたりしました。私と共に卒業した69人中10人が基礎医学分野に進み、今なお5人が法医学、病理学、生化学、微生物学といった分野で活躍しています。
 

医学研究の求道者に心酔 解剖学の道に進む


こうした先生方のなかにあって、免疫病理学講座の北条憲二先生はむしろ異色の学究肌でした。北条先生は、病理学の泰斗として高名な岡林篤先生の弟子に当たられる方で、医学の教育・研究に自分のすべてを注ぎ込む求道者のような姿に心を揺り動かされた私は、「臨床(泌尿器科か膠原病内科)に進む前にこの先生の弟子になってみよう」と思ったのです。

北条先生は大学院生の私に、免疫系、生殖系の病態生理を探求していくうえで形態観察がいかに大切かを、ときに厳しく、ときに優しく叩き込んでくださいました。それは恩師の稲葉先生が教えてくださった、全身観に基づく医学の大切さと一脈通ずるものがあり、興味深く思ったものです。

当時、白衣をまとい、聴診器を首にかけてさっそうと歩く同級生とあいさつをかわす、汚れた実験着の自分にいわく言い難い感覚を持ちながら、大学院から助手の時期を通じ、ほとんど毎日大学に泊り込んで生殖免疫の研究に打ち込みました。
 

“短距離走者”ではなく“長距離の駅伝走者”として


やがて、私の論文の一つがオランダ・ユトレヒト大学のDirk G. de Rooij先生の目に留まり、あたかも臨床へ行くタイミングを逸しさせるかのように「よかったら一緒に仕事をしないか」というオファーをいただき、妻と1歳になる子供と一緒に留学することになりました。

米国の最先端のラボに留学した友人に聞くと、複数の研究者を同じテーマで競わせたり、極端な場合には、一時帰国している間に自分が実験に用いていたマウスがすべて殺処分されていたりといったケースもあるようですが、私の留学体験はまるで違います。

午前8時半に出勤すると9時半まではコーヒータイムで、のんびりと昨夜のサッカーの話などに興じ、正午から午後1時半までは昼食と森の散策、午後3時にはティータイムがあり、午後5時を少し過ぎれば誰もいないといった具合に、実にゆったりと時間が流れているのです。

それでいてラボでの仕事は着実に進み、世界をリードする論文を続々と報告しています。というのも、de Rooij先生は30年にわたって研究テーマを全く変えていないのです。彼らの研究スタイルは、流行に乗り、そのときどきのトピックスを全速力で追っていく“短距離走者”ではなく、先代から受け継いだタスキを携え、焦らずにコツコツと業績を積み上げ、後進にタスキを託す“長距離の駅伝走者”になぞらえることができるかもしれません。

解剖学の世界では、このように狭い領域を深く掘り下げているからこそ、50年前、100年前の論文が最新の論文に引用されることがしばしばあるのです。器官や組織をすりつぶして測定機器にかけるのではなく、生命現象をあるがままに観察する形態学であるだけに、絵画を鑑賞するような眼を養う必要があります。そのためには、最初の数年間は大学に泊まり込む勢いで研鑚を積み、自分のテーマを見つけたらヨーロッパ式にゆっくりと時間をかけて深く掘り下げていくのがよいのではないかと考えます。
 

医学を通じで悟るには二つの道がある


人間には食欲、睡眠欲、性欲といった三大本能だけでなく、日常の忙しさにマスクされがちな「何かを悟りたい」という本能があるように思います。医学を通して何かを悟りたいと思えば、「生命を深く追究する」か「愛の高みを上る」という二つの道があるでしょう。極端な言い方ですが、前者を究めようと思えば、臨床の現場から一歩引いて日夜研究室で生命と向き合う求道者へ、後者を究めていこうと思えば、己のための生活を捨てて患者にすべてをささげる一生へと至っていきます。

前者か後者の二者択一を強いるのは酷かもしれませんが、「何かを究めたい」、「何かを悟りたい」という欲求の強い若い先生方は、自分がどちら側の人間なのかを留学などの機会にじっくり考えてみてはいかがでしょうか。

特に臨床系の若い先生方にとって、海外留学はそれまで抱えていた多くのdutyや雑用から解放され、真の自分と向き合えるいい機会になります。ただ臨床と研究の両者を究めるのは至難の業だと思います。両者を究めたいと思い続けながらも、医局の事情でそれを諦めざるを得ない場合もあるでしょう。

「生命を求めるか、愛を追究するか」、私も途上の人間ですのでどちらがよいとは言えませんが、両者はやがて究極的に一つに融合するのかもしれないと考えています。
 
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