沿革
⼤正5年(1916年)5月、日本医学専門学校(現 日本医科大学)の学生は学校側と対立し、約450名が同盟退学しました。彼らは理想とする学問の場を自分たちの手で実現させようと新校設立運動を開始し、幾多の困難を乗り越え、同年9月、東京物理学校(現 東京理科大学)の教室を借りて、本学の前身である東京医学講習所の設立を果たしました。
大正7年(1918年)には、長く官界にあった高橋琢也先生が全私財を投じ、全国を奔走して佐藤進氏、森林太郎(鷗外)氏、原敬氏、犬養毅氏、高橋是清氏、大隈重信氏、渋沢栄一氏など医学界、政界、財界の有志から多大な支援を受け、東京医学専門学校が設立されました。昭和21年(1946年)、東京医科大学に昇格し、現在に至っています。
本学では、学校の設立と運営に心血を注いだ高橋琢也先生を「学祖」として、今も尊敬の念と親愛の情をもって語られています。
大正5年(1916)5月 | 日本医学専門学校(現 日本医科大学)の学生約450名が同盟退学し、 新校設立運動を開始 |
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大正5年(1916)9月 | 東京物理学校内(現 東京理科大学)に、東京医学講習所を開設 |
大正7年(1918)4月 | 東京医学専門学校設立認可(理事長・高橋琢也 校長・佐藤達次郎) |
昭和6年(1931)5月 | 附属淀橋診療所(後に博済病院を統合し、淀橋病院と改称)を開設 |
昭和21年(1946)5月 | 東京医科大学設立が認可され、附属淀橋病院を東京医科大学病院に改称 |
昭和24年(1949)3月 | 旧制大学学部開設が認可 |
昭和24年(1949)10月 | 茨城県稲敷郡阿見町に東京医科大学霞ヶ浦病院を開設 |
昭和27年(1952)2月 | 新制大学の設置が認可 |
昭和30年(1955)1月 | 学制改革による6年制医科大学の設置が認可 |
昭和32年(1957)4月 | 大学院を設置 |
昭和39年(1964)4月 | 東京医科大学附属高等看護学校を設立 |
昭和50年(1975)4月 | 東京医科大学附属霞ヶ浦高等看護学校を設立 |
昭和51年(1976)4月 | 6年制一貫教育を実施 |
昭和53年(1978)4月 | 附属高等看護学校を東京医科大学看護専門学校に、 附属霞ヶ浦高等看護学校を東京医科大学霞ヶ浦看護専門学校に改称 |
昭和55年(1980)4月 | 東京都八王子市館町に東京医科大学八王子医療センターを開設 |
昭和60年(1985)12月 | 東京医科大学新大学病院竣工(旧 大学病院) |
平成10年(1998)4月 | 東京医科大学の英語名を変更 |
平成21年(2009)4月 | 東京医科大学霞ヶ浦病院を東京医科大学茨城医療センターに改称 |
平成22年(2010)1月 | 東京医科大学医学総合研究所を設置 |
平成25年(2013)4月 | 東京医科大学医学部看護学科を設置 |
平成25年(2013)4月 | 東京医科大学大学院医科学専攻(修士課程)を設置 |
平成25年(2013)7月 | 東京医科大学教育研究棟(自主自学館)竣工 |
平成26年(2014)2月 | 東京医科大学第一看護学科棟竣工 |
平成27年(2015)2月 | 東京医科大学八王子医療センター院内保育所・研修医宿舎「緑風館」竣工 |
平成28年(2016)3月 | 東京医科大学看護専門学校閉校 |
平成28年(2016)11月 | 東京医科大学創立100周年記念式典並びに祝賀会挙行 |
平成31年(2019)3月 | 東京医科大学新大学病院竣工(現 大学病院) |
学祖 高橋琢也 略年表
弘化4年(1847) 12月17日 |
広島県安芸国牛田村(広島市東区牛田)に生まれる。幼名 豊吉。 宮内庁「転免物故履歴」による幼児記録空欄。 生活は悲惨でどん底の境遇を過ごす。 |
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嘉永2年(1849) | 父(久次)没。 |
嘉永4年(1851) | 母(リツ)家を去る。(明治27年没)祖父母による養育。士族籍を手放す。 |
安政6年(1859)1月 | 13歳で大阪に出る。 薬問屋 平野屋(平野屋弥平/道修町:現在の大阪市東区北浜南)に住込み奉公。 傍ら独学でドイツ語、蘭学、医学を学ぶ。 |
明治3年(1870)12月 | 24歳で東京へ上京。 ドイツ語学を認められ、大学南校(東京大学の前身)出仕少得業生準席を申し付けられ、大学南校教授となる。 |
明治4年(1871) | 西周(にし あまね・貴族院議員 蘭学、ドイツ語を学ぶ思想家/1827~1897年)の下で文献翻訳に従事。 |
明治5年(1872) | 陸軍兵学寮(ドイツ兵制翻訳調査)に勤務。 ドイツ軍制度を導入。 陸軍省の軍制改革に着手(大山巌、山県有朋が設立)。 |
明治6年(1873) | 小柴富士子 または「ふじ」(1851~1916)と結婚。 (千葉 佐倉 小柴氏長女/嘉永4年4月4日生) 陸軍省第六局(翌年参謀局、1878年参謀本部に改変)に勤務。 |
明治11年(1878) | 参謀本部翻訳課(課長 西周)に勤務。 |
明治16年(1883) | 参謀本部(本部長 大山巌)付測量課出向。仕事は兵制、兵書、測量など広範囲に亘る。 |
明治18年(1885) 10月23日 |
参謀本部より農商務省山林局庶務課に転任。 森林経済―教育―行政は密接不離の関係。 日本林区制度の創立と近代国家憲法に伴う翰林経営基盤を作る。 |
明治20年(1887) | 山林局長・武井守正と山林学校教授 中村弥六との確執により突然辞表を提出し 浪人となる。 |
明治21年(1888)9月 | 「森林杞憂」を出版。 |
明治21年(1888) 10月18日 |
東京農林学校教授に任命され、再び山林局に入る。 内閣(総理大臣 伊藤博文)より官林官有地取調委員(委員長 農商務大臣 井上馨)に任命される。同時に井上馨、武井元農林局長等の推挙により国有林として存在すべき森、皇室として供すべき土地など日本国の調査選定すべき方法を提案。 |
明治22年(1889) | 43歳。 林務官に任命され6月1日、青森大林区署長となる。 旧弊を一掃し森林法制定に尽くす。 |
明治23年(1890) | 日本の近代官林事業の確立。 大小林区官制を推進する(大林区は一府県の管理区域)我が国で21箇所を大林区署とした。 |
明治26年(1893) | 高知大林区署長に任命される。 |
明治27年(1894) | 森林法調査委員(榎本武揚農商務大臣の推挙)として森林法制定の著作にかかる。 |
明治28年(1895) | 農商務省山林局長に就任。 森林法の制定に全精力を注ぐ。 |
明治29年(1896) | 「森林法案」を第9帝国議会に提出し審議するが成立せず。 (農商務大臣 榎本武揚) ※政府側=金子堅太郎、高橋琢也 ※議会側=櫻井努、中村弥六、中野武営、斉藤良輔 |
明治30年(1897) | 第10帝国議会において「森林法」が成立し、わが国の林野の基本法が完成した。 4月12日公布。 農商務大臣が榎本武揚から大隈重信に代わり、大隈と折り合いが悪く山林局長を依頼免官となり長い浪人時代に入る。51歳。 以後三井物産(株)、北海道庁等の顧問を務める。 清国、韓国を林業視察(犬養毅に同行)。 高橋是清、伊藤博文、原敬らと交遊を広める。 |
明治31年(1898) | 「森林法論」を出版。 その公益は常に国家利益であり、私益ではないことが彼の全生涯を物語っている。 |
大正2年(1913) | 第10代沖縄県知事に任命される。67歳。 高橋の窮状をみかねて第一次山本内閣内務大臣・原敬が救済したといわれる。 沖縄の悲惨な状況に対し産業振興に尽くすも在職一年にして政党政治の苦汁を飲まされる。 |
大正4年(1915) | 「起て沖縄男子」を出版。 自ら党総裁を務める立憲青年自治党機関誌「国論」を発行。 |
大正5年(1916) | 70歳。 4月17日、愛妻 富士子氏死去。京都市に埋骨する。享年65歳。 5月16日、日本医学専門学校(現日本医科大学)の学生約450名が血判連盟の盟約により同校を総退学するという事件、いわゆる"日本医専のストライキ"があり、同郷の長委三美、藤中正の懇願を受け学生の悲運に同情し新校設立に奔走。 9月11日、東京物理学校(現東京理科大学)内に東京医学講習所を開設 初代理事長となる。 東京医学専門学校創立委員長として資金集めのために、各界の名士富豪を求めて全国を奔走。自ら、所蔵の書画骨董、北海道や青森に自己所有の土地を処分し私財を投じた。 10月、私立東京医学専門学校設立願いを文部省に提出。文部省内に立教大学医学部創立論、学生徴兵忌避問題が起こり、新校の設立認可が進まず、再三にわたり文部省と困難な交渉にあたる。ヨーロッパで第一次世界大戦が起こり、立教大学は募金が集まらず医学部の設置を断念。 |
大正7年(1918) | 4月11日、文部省より東京医学専門学校の設立が認可される。 4月13日、東京医学専門学校の開校式を挙行。 この日を東京医科大学の開校記念日と定める。 理事長 高橋琢也、校長 佐藤達次郎。 |
大正8年(1919) 1月27日 |
貴族院議員 原敬内閣より勅撰される。 帝国議会における活動、国家利益の優先を常に説く。 |
大正9年(1920) 4月13日 |
文部省より念願の無試験開業の指定を獲得する。 |
昭和3年(1928) | 4月、フランス・パリでの会議に出席し、米国、欧州15ヵ国を視察し10月に帰国。 |
昭和6年(1931) | 米山シゲと結婚。 |
昭和10年(1935) 1月20日 |
脳梗塞のため神奈川県逗子町にて死去。享年89歳。 後日、この日を「学祖 高橋琢也先生記念日」と定める。 |